沖縄一人旅の雑記 その2【沖縄戦】
井上ききです。
今回の沖縄は、着いた日以外 ほぼお天気が悪くて、当初楽しみにしてた「海中道路」を通る離島めぐりドライブをあきらめ、何をするかが問題でした。
実は縁あって、ここ2年くらい日本の歴史について学ぶ機会に恵まれて、まだまだ知らなきゃいけないことがたくさんあるよねって感じてた。
そんな中で、やっぱり【沖縄戦】のことは気になるし。お天気悪いし。
というわけで、各所まわってみたよ。
まず、【沖縄戦】について簡潔に説明する。
沖縄戦とは
太平洋戦争も末期の1945年、アメリカ軍が日本に上陸してくるわけだけど、まずは沖縄に攻めてきます。
しかし、兵力もなにもかも劣勢な日本軍。勝ち目はないけど、沖縄で時間稼ぎのための戦いを強いられる。
でもね、日本軍はかなり健闘する。(ここら辺、書きたいけど長くなるので調べてね)
そんな中で、本当にたくさんの民間人が犠牲になってしまうのです。
女性も子どもも。もう、沖縄は振り回されて、ひっちゃかめっちゃかにされ、多くの犠牲者が出てしまうのでした。
▼ひめゆり平和祈念資料館
「ひめゆりの塔」は観光スポットとして有名ですよね。
慰霊碑みたいなものがあるだけかな、と思ったら大間違い。かなり学習できて見応えも十分。しっかり時間もかかります。
ひめゆり学徒隊として、兵士たちの看護にあたり、犠牲になった女子学生のほとんどの顔写真が展示されていて涙が止まらない。
まだ13歳の少女もいる。ほとんど子どもじゃないか。
爆撃により命を落とした少女だけでなく、捕虜になるくらいなら、と自決した方、病気や衰弱により亡くなった方・・・。
240名のうち123名が犠牲となったのです。
このひめゆり平和祈念資料館には、修学旅行生がめちゃくちゃたくさんいて、混雑していたんだけど、
しっかり事前学習をしてきているようで、とても熱心に資料を読んだり、資料映像をみたりしてた。
そんな集団の中で、引率の先生です~みたいな顔をしてそっと紛れてみました。
#引率の先生ごっこ
▼陸軍病院壕跡
その、ひめゆり学徒隊が看護に従事した病院。
病院と言っても、まっくらな壕と呼ばれる洞窟で、実際にヘルメットかぶって中に入ることもできるけど、
私は・・・行かないようにと、知人に止められていたので入ってません。
代わりに南風原町文化センターで当時の病院を再現した施設を見学できるということで訪れるも、残念ながらリニューアル中で休館でした。
でもね、作業中の施設に「お手洗い、貸してもらっていいですか?」って言って入ってちょっと覗いてきましたけど。(ワタシシブトイ)
なぜ、実際の病院跡に行かないようにと止められたのかというと、体調が悪くなる人が多いからです。
私は、そういうのけっこう鈍感だから大丈夫だよ、って言ったんだけど、鈍感な人も受け取ってしまうような場所だとか。
まして、ききさんは共感力とか強いでしょと。
当時、多くの重症を負った兵士がここに運ばれて来たわけだけど、撤退を命じられた際、連れて行けない重症兵は、自決を強要されたそうです。
国のために必死で戦い、重傷を負い、最後は青酸カリ入りのミルクで自決させられる。
共感できる範囲をかんぜんに超えているのです。
私の共感力など、とうてい及びませんて。
でも、想像してみる。感じてみる。
光も風もない湿度と悪臭。劣悪な暗闇の中で、痛みと苦痛と共にいつ明けるかわからない日を過ごす。
そして自決を強いられる・・・
やっぱり、
南風原壕群20号の見学は一人では無理かな。
今度、だれか一緒に行ってくださいね。
▼対馬丸記念館
ここは、那覇空港からもほど近く、コンパクトな施設。
1944年、沖縄から本土へ疎開する多くの子ども達を乗せた対馬丸がアメリカ軍の潜水艦に撃沈され多くの子ども達が犠牲になりました。
幼い我が子を3人も奪われてしまったお母さんもいたのです。
犠牲になった子供たちの写真パネルが展示されていて、我が子に似てる子がいたり、姪っ子に似てる子がいたりする。
なにを思って海に沈んでいったのだろうとか思う。
子を失った母は何を思ったんだろうとも思う。
▼平和の礎(いしじ)
平和祈念公園に沖縄戦で犠牲となった24万人以上もの名前が刻まれた石碑が並んでいます。
石碑が教えてくれるのは、これほどまで大勢の人々が犠牲になってしまったのかと言う代償の大きさです。
そして、沖縄が願っているのは、日本の平和ではなく、世界の平和なんだということ。
だから、ここには国籍を問わず、すべての犠牲者の名前が刻まれている。
民間人も兵士も、そして外国の兵士も。
日本人のタマシイ
沖縄戦では多くの民間人が「ガマ」と呼ばれる地下の鍾乳洞に身を隠していましたが、
そういった施設も見学できるので、次にゆっくり行けるときに訪れてみようと思っています。
さて、この沖縄戦もそうだし、広島、長崎に原爆が落とされ終戦したのも、ほんの80年ほど前の話です。
私が生まれるたった30年前っていうのがどうしてもシンジラレナイ。
だってさ、私が生まれた1974年の日本には十分な豊かさと平安がありました。
まあ、記憶があるわけじゃないけど。
なんだかね、私にはここが最も不可思議でもあり、日本人バケモノだなって思うところ。いったいどうやって復興したのかと。
ここを生きたのが私たちの祖父母の世代。決して大昔の話ではなく、その魂が私たちの中にも宿っているはずなのです。
太平洋戦争のこと、沖縄戦のこと、真実を知れば知るほど日本人って最強だな、大好きだな、日本人でよかったなって思うのでした。
※ここに書いた内容は、知識の浅い井上が思うままに好きに綴ったブログですので、内容に間違いや問題あったらやさしく教えていただけると助かります。